ネジマキな日々

ただの独り言です。

ソウゾウリョクとソウゾウリョク

「ソウゾウリョク」という音をよく耳にするが、それを発している人の頭の中ではどのような漢字から音に変換されているのだろう。 「ソウゾウリョク」とだと思われることを「クリエイティビティ」などと発する人もいる。 こちらも頭の中では、何かしらの漢字から「ソウゾウリョク」を経て「クリエイティビティ」となっているのではなかろうか。 「ソウゾウリョク」の元となった漢字表現、おそらく「想像力」か「創造力」であろうが、どちらであるのかを確かめるすべはない。

この音が日本語に取り込まれたときのモデルとされたものは、もちろん「Creativity」であろうと想像に難くない。 だが、個人的な経験に基づく見解ではあるが、この音を聞いたときに「Creativity」という単語が持つ意味空間が垣間見られることは希ではなかろうか。 発しているものの「ソウゾウリョク」、こちらは「創造力」「Imagination」、という単語が持つ意味空間の反面が揺蕩う光景が目に浮かぶ。 要するに「クリエイティビティ」と「Creativity」それぞれの単語が持つの意味空間にズレがあるように聞こえるのだ。言語の間を移動したことが原因とするには大きすぎるズレが。 自らが発した「クリエイティビティ」が「Creativity」を元にしているという「Imagination」が働いていないかのように。

とにかく「ソウゾウリョク」から想起される2つの単語には、音のみならず密接な距離感を感じる。その位置関係は別として。 あたかも「Creativity」と「Imagination」が日本語に取り込まれて、「クリエイティビティ」と「イマジネーション」になることで、 その近しき関係の陰が浮き出たのではなかろうか。

井の頭公園を廻る- (1) 冬の夜

ドトールコーヒーを出て右に歩を進める。 七井橋商店街のレトロな灯りと控えめな喧騒を抜け、階段を下る。

夜の井の頭公園は真っ暗なイメージを持っていたが、ひんやりとした青白い光で薄く覆われていた。

左手に広がる未舗装の広場を抜け、池を廻る路に乗った。 風が強ければ広場からの砂埃か気になるところだろうか、 それとも暗がりの砂埃など気にもとまらないのだろうか。

入り口ほどではないが、路をたどるには支障のない程度の街灯を頼りに時計回りに進む。

池端のベンチが街灯に照らされ、緑色になっている。 その緑が蠢いた。目を凝らすと寝袋が横たわっている。 この気温の中ご苦労なことだ、蠢きたくもなるってもんだ。

時折、前方から揺れる影が近づいてくる。ランナーだろう。 そういえば、すれ違ってはいるが、追い抜かされてはいないな。 ランニングは反時計周りが主流なのだろうかなどと、たわいもないことを考える。

住宅側の木々の中からカサカサと聞こえる。僅かに風もあるようだし、葉擦れかなと思い目を凝らす。 こちら側にもベンチがあったのか、寄り添う二つの塊が目に入る。 野暮なことをしたもんだと、チクリと良心を呵責するが、それ以上に寄り添ってもこの気温には対抗できなかろうという思いが上回った。 男女の絆は試練を乗り越えることを強いているわけではあるまい。 歩を進めていくと同じ様な光景が池を取り巻いているではないか。 やはり男女間にはなにかしらの掟が存在するのだろうか。あまりに嫉妬心をくすぐらない光景だ。

そうこうしているうちに、またひんやりとした青白さが浮かんでくる。七井橋の反対側だ。 パブの小洒落た明かりこそあれ、商店街の光が届いてこない分、ちょっとだけ寒そうだ。

また、同じ様な青白さだ。わずかに赤みを帯びてはいるが、雰囲気を暖めるには至っていない。 人気のないこの時間の弁天様に、そこまで求めるのは酷ってもんだ。

また、暗がりを進む。開けた先に橙の横一文字が飛び込む。 こんなに寒いのに、なぜか温度を感じる、この絵画が好きだ。 周りの闇の自己主張を、ファジーな灯りが煽る。かえって僅かな月明かりを際だたせる。 反時計周りでは出会えない空間だろう。暗闇と寒さの中を進んできたからこそ招かれる空間だ。

また、ひんやりとした青白い光とレトロな灯りの境界に戻ってきた。さて、またいつもの街に戻るとしよう。

夜、北側から井の頭公園の七井橋を眺める

木々を編んだ縁に囲まれた、艶やかな漆黒のキャンパス。 その真ん中に天の川銀河を横から眺めたかのような、 はたまたスポットライトを浴びたシンバルかのような輝きが横切る。

イヤホンから流れるColdplayを超えて、時折聞こえる掠れたノイズと呼吸音。 暗がりを影が滑っていく。ランナーだろう。

時折、輝きの下方が揺らぐ。風が出てきたのだろうか。

キャンパスが上に広がっていて、仄かに青みがかっている。月明かりか。

そういえば、手足が多少痛い。明日の朝は冷えそうだな。
そう思いながら、しばらく佇んでいた。

物の怪と人の怪

悪夢を食べ、邪気を払う神獣とされる「獏」。夢を食べるといわれ、そこから夢を奪う妖怪ともされる。

心を見透かし、記憶を奪うとされる妖怪「玃(かく)、「覚(さとり)」とも呼ばれる。

かつて、人の脳の活動に作用する力を持つ怪異が世に跋扈していた。 神獣であれ妖怪としてであれ。夙に見かけなくなったものだ。

一方で、得体が知れず、不吉を伴うとされる「鵺」。不吉を伴うとは運気を奪うとも解釈出来よう。 これは世に憚る。怪鳥ともされるが、そうではなかろう。 人の運気を喰らい肥える物の怪、その果てには、その人物の夢と富をも喰らう。

あなたにも心当たりが在るではないか?人の型をし、日常に潜む。少なくとも「鵺」は人の世に健在だ。

賢者たらんと明日を占う

「占い」
  根拠のない分類で根拠なく人の類型を探ろうとする試み。そう思いこんでいた時もある。それを信じ右往左往する日々を送ることは愚かであるとも。

世に「占い」と呼ばれるものは数多存在するが、よく観察すると本質的には僅かなものに集約される。

  • ひとつ、先天的な要素からの類型化。(四柱推命や星占い)
  • ひとつ、その瞬間の偶然性からの類型化。(タロットやおみくじ)
  • ひとつ、後天的な要素からの類型化。(手相や姓名判断)

調べてみると、それぞれ順に「命」「卜」「相」と呼ぶらしい。他に「医」と「山」を加え「五術」とも呼ばれているようだ。

一説には「命・卜・相」は経験則による記号類型化であり、霊感などといった非科学的な手法とは一線を画すとされる。 数千年に渡る統計データのサマライズと見做せば、そうとも言えなくもなかろう。 個人の経験を積み重ね、経験の集合となれば、それは歴史の一種であろう。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
オットー・フォン・ビルマルクの言である。

つまり、占いを信じるという行為は、歴史に学んでいるとは言えないか。占いに振り回されることもまた賢者たる証ではなかろうか。

幸い、巷には占いが溢れている。避けようとしても目に入ってしまうには充分な程度に。この現実を見るに、我々は賢者の世紀を生きている。

さて、今日も歴史に学ぶために、運を試そう。だって賢者なのだから。

嗜好品と記憶

酒と煙草、古代から人類が愛した続けた嗜好品たち、いや人類の長年の友である。 そうそう、珈琲も仲間に入れてあげよう。 嘘、酒はともかく、煙草と珈琲は比較的最近になってできた友人だ。

Oasisも歌っている.。
"all I need are cigarettes and alcohol"

竹内まりあも歌っている。
「あなたの好きなコーヒーと煙草の香りに秘められた淡い予感」

いずれの友人たちも、医学的に謂うと精神に作用する化学物質を含み、依存性を有し健康を害する可能性のある厄介者だ。 いわば悪友である。昨今、大きく問題視されてはいるが、なかなかその縁は断ち切れずにいる。

果たして、彼らが友であり続けるのは、依存性のある化学物質のみが成せる技なのだろうか。 確かに理由の一つかもしれないが、彼ら皆、我々を魅了する香りを発している。 香りは記憶を想起させる。所謂「プルースト効果」というやつだ。

この効果、嗅覚だけが海馬に直接信号を送るからなどともっとらしい理由が挙げられているが、 なんてことはない結局、人は匂いフェチなのだろう。

それでは、私も酒の香りを楽しむとしよう。香れなくなるまで。

波打つ世界と私

超弦理論によると、宇宙の最小基本要素は弦であり、乱暴に言うと万物はその振動により表現されうるという。 万物が弦の振動により具現化されているとすると、世に現れる現象が波打つのは自然な振る舞いとは言えないか。 季節は春から夏、秋から冬へと巡り、酒場では老若男女が出会い、別れ、再び出会うという繰り返される日々を送っている。

政治や経済の世界も繰り返し波打っている。 市場では値上げたと思えば揺り戻し、値を下げてもやはり揺り戻す。 譲れない理念を唱えて、離散集合を繰り返すことも、やはり見ようによっては波打っているのではなかろうか。

テクノロジーの世界でもそうだ。 コンピューターが個人行き渡ったかと思えば、クラウドという集約が行われている。

価値観や流行り廃りも繰り返し波打っている。 一斉に近代化を目指したかと思えば、モダンを標榜し、挙国一致・経済成長を経て多文化共生と波打っている。 スカートもロングからミニ、またロングといつか発散すのではないかとさえ思う。

世界が波打つ以上、私も波打っているのであろう。 主観では一貫しているように感じているが、他者から見ると振れている場合もあろう。 主観と客観が一致しないというのは、ある種の真理かもしれない。 悩みというのは、多かれ少なかれ、その溝に生まれるものだから。

振り返ると、確かに自分の胴回りが波打っているかもしれない。 しかし、そういうことなのだろうか、いや多分違う。 これも主観と客観の問題か、いや現実逃避だろう。