予定説と宝くじ、新年に思うこと
かつて、アルベルト・アインシュタインは確率論に基づく現象理解を批判し「神は賽子を振らない」と言った。現代では空間中に散逸した情報が量子的な振る舞いを生み出していると主張するむきもある。
また、ジャン・カルヴァンは現世の行いと救済は相関しないとし、「予定説」を説いた。
そう、賽は投げられないのである。
一方で、現代には宝くじという仕組みがある。広く薄く小銭を集め、確率論を基礎とする抽選という方法で選ばれた一人に、その大部分の所有権を移転するゲームである。
巧妙にプロセスを積み上げて情報の散逸を促し、確率論に見せかけた平等性を主張する抽選という儀式。
先の説に従うと、これら一連の事物は「予め定められているのである」と私のゴーストは囁く。そして、その予定を確認するために今日も宝くじを手に入れ、予定されていなかったことを確認するのだ。
それでもまた、宝くじを手にするだろう。全ての情報を知ることが出来ない限り、予定を知ることができないのだから。
そう、匙はなげられたのだ。