夢うつつな夢
「Dreams come true」
古今洋の東西を問わず不特定多数の集合としての未来ある若者達に掛けられてきた陳腐な激励。
「Boys be ambitious」
ウィリアム・スミス・クラーク博士の言は表現こそ異なるが、根底を流れる大意は等しかろう。
では、特定された個としての夢見る若者達へはどのような激励が送られたのか。
「寝言は寝て言え」
「うつつを抜かすな」
である。
多くの偉人といわれる人達は、多かれ少なかれ、このように罵られてきた。 一見相反しているように思われる台詞だが、本質的には同位なのではないだろうか。
「夢は実現する」
ある意味で心理である。夢見られるものは、想像できるものであり、実現できる可能性を秘めているのだから。 逆は成り立たない。夢見れないもの、想像すら叶わないものは実現するなど不可能なのだから。
「うつつを抜かし」、「寝言を言う」ことで「夢」を見るのだ。可能性の原石は「夢」なのであろう。実現の可能性の種は想像できるものなのだから。
さて、今日も可能性の種を植えよう。布団の中で。
心理的不協和とエントロピー、そして晩御飯
「目的が手段を正当化する」
トロツキーの言葉を引かずとも、よく耳にするフレーズだ。だがトロツキーの言葉には続きがある。
「なにかが目的を正当化する限り」
認知的不協和理論では行動と意志の間に不協和が生じた場合、意志が合理化され行動が正当化される。「洗脳」の原理だ。
>いずれにしても、熱力学が示す通り、二つの関連する事物の状態が異なる場合、平衡状態に向け変化する。エントロピーは増大するのだ。
現代を生きる我々は、ごく些細なものから人生を左右するものまで、大小様々な意志決定を日々行っている。「行動が意志を合理化する」にも関わらず。
我々に日々意志決定を迫り、日夜苦悩させる代表的な命題。
「今日の晩御飯に何を食べるのか?」
この命題に対する意志決定は二つの結末をもたらす可能性がある。
- 美味しい晩御飯を食べる
- 不味い晩御飯を食べる
誰も不味い晩御飯を食べたくはない。これに異論はないであろう。であれば、この意志決定は積み重ねると人生を左右しかねないほど重要である。
「行動は意志を合理化する」のだ。「晩御飯を食べた」行動は、食べたものは「美味しかった」に意志決定を正当化するのではなかろうか。結果は同じなのである。
そして今日も
「晩御飯何食べる?」
「なんでもいいよ」
というやりとりが繰り返される。
予定説と宝くじ、新年に思うこと
かつて、アルベルト・アインシュタインは確率論に基づく現象理解を批判し「神は賽子を振らない」と言った。現代では空間中に散逸した情報が量子的な振る舞いを生み出していると主張するむきもある。
また、ジャン・カルヴァンは現世の行いと救済は相関しないとし、「予定説」を説いた。
そう、賽は投げられないのである。
一方で、現代には宝くじという仕組みがある。広く薄く小銭を集め、確率論を基礎とする抽選という方法で選ばれた一人に、その大部分の所有権を移転するゲームである。
巧妙にプロセスを積み上げて情報の散逸を促し、確率論に見せかけた平等性を主張する抽選という儀式。
先の説に従うと、これら一連の事物は「予め定められているのである」と私のゴーストは囁く。そして、その予定を確認するために今日も宝くじを手に入れ、予定されていなかったことを確認するのだ。
それでもまた、宝くじを手にするだろう。全ての情報を知ることが出来ない限り、予定を知ることができないのだから。
そう、匙はなげられたのだ。